もう一人の幼なじみ

なっちゃんとノエチが、昔と変わらず幼なじみで団地暮らしが出来るのには、もう一人の幼なじみがいるからかもしれない。空ちゃんは小学校にあがって亡くなってしまったが、団地の中には空ちゃんとの思い出が詰まっていて、今も「ふたり」のそばにいるからだ。

 

 

 

 

夢の国の裏側

夢の国への憧れに付け込んで搾取しているとしか思えないキャストの時給である。しかし、エッセンシャルワーカーへのこのような扱いは、この夢の国だけではない。

それに対してゲストへの対応は限りなく優しい。

「親のない子どもの場合もらうことはあるため、お父さん、お母さんではなく『「一緒に来た人』というように教育された。」(p118)

この優しさをキャストの報酬にも注いでこその夢の国である。

 

 

もらって、あげて、プレゼント

「もらってくれるだけでうれしいの」

「なにかをもらうことはなにかをあげることなのかもしれない」(p118)

確かに誰かにプレゼントをすることはそれだけでも嬉しい。喜んでもらえたらもっと嬉しい。

プレゼントは巡り巡って(地球を一周して)自分のところに還ってくるのかもしれない。

 

 

 

フィールドワークから見えてくる中国

農村の人びとが比べているのは都市住民たちではなく隣近所の農民である。この両者はそれぞれ別の世界に生きていて交わることはない。

村に選挙があるのは、地方のリーダーを交代させてボス化を防ぐために中国共産党が編み出した手法である。

新聞やテレビからでは得られない情報があった。

映画『小さき麦の花』のエピソード(大ヒットからの上映中止)は、この政府が恐れていることが露呈した。名もなき人たちの日々の小さな幸せを恐れているのである。それは政府がもたらしたものではなく、彼ら自身が見出した幸せである。

 

 

生きた証

人間の足跡、生きた痕跡は、必ずどこかに残る。そう、たとえ行旅死亡人であっても、である。(p190)

珍しい名字の印鑑が残されたのは本人が意図したことではないかもしれない。

しかし、遺品の印鑑に導かれたいくつもの出会いは、無意識の中で千津子さんが望んでいたことではないかと思いたい。

 

M-1のその先

M-1によって漫才は復活し漫才師の地位も上がっていった。著者は今までの常識をひっくり返すような新しい漫才の出現をM-1に期待しているが…。

私はM-1によって漫才の多様性が進んでいくのではないかと思っている。価値観の多様性が評価に影響を及ぼすかもしれない。

 

 

申請するまでの道のり

今の自分にどのような社会保障制度が受けられるかはネットで調べることができる。そこ(制度の利用)に気づくことができるかどうかが第一のハードルである。そして実際に申請することができるかどうかが第二のハードルだ。

誰かが声をかけたり、背中を押すだけでもこれらのハードルは飛び越えられる。それは専門職でない私たちにもできることだ。

しかし、著者が述べるように義務教育の場でこうした権利を利用方法も含めて教えることが何より重要である。